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2026/02/13

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いつの間にか始まっているオリンピックの話

いつの間にか始まっているオリンピックと、時代の空気の話

「え、オリンピックもう始まってるの?」

最近、そんな言葉を耳にすることが増えた。かつては開催が近づくにつれて街の空気が変わり、テレビも新聞もオリンピック一色になったものだ。それが今は、選挙や社会問題、日々流れ続けるニュースの波に埋もれ、気づけば開会式が終わっている。オリンピックは確かに開催されているのに、その熱量が以前ほど伝わってこない。そんな感覚を抱く人も少なくないのではないだろうか。

思い返せば、オリンピックは単なるスポーツイベントではなかった。経済のスイッチであり、家族の節目であり、時代の象徴だった。

開催年になると、家電量販店には「五輪を最高画質で!」という大きなポスターが掲げられ、新型テレビが並んだ。4年に一度の祭典は、テレビの買い替え理由として十分すぎるほどの説得力を持っていた。ボーナスの使い道として「オリンピック前にテレビを新しくしよう」という会話が普通にあった。

不思議なことに、車の買い替えまでオリンピックと結びついていた時代もあった。景気が良く、未来に対する楽観があった。大きなイベントに合わせて生活をアップデートする。オリンピックは、そうした「前向きな消費」の象徴だったのかもしれない。

それが今、情報の中心は必ずしもスポーツではない。政治や経済、災害、国際情勢。社会が抱える課題は複雑になり、ニュースは常に緊張感を帯びている。加えて、情報の受け取り方も大きく変わった。テレビのチャンネルを回せば自然と五輪中継に

出会った時代から、スマートフォンで自分の興味関心に沿った情報だけを受け取る時代へ。アルゴリズムは私たちの関心を学習し、スポーツに関心を示さなければ、オリンピックの情報は表示されにくくなる。

つまり、オリンピックが小さくなったのではなく、私たちの情報空間が分散したのだ。

それでも、競技そのものの進化は目覚ましい。特にスノーボードやフリースタイル系の競技は、その象徴だろう。10代の選手たちが当たり前のように世界の頂点に立ち、かつては想像もできなかった回転数や技を決める。空中で三回転、四回転。人間の身体能力の限界を更新していく様子は、まさに現代のスポーツの縮図だ。

昔、冬季オリンピックといえば、スキージャンプやスピードスケートが王道だった。ジャンプ台の上に立つ選手の静かな集中、滑走前の緊張感。そこにはどこか「職人」のような凛とした空気があった。努力と忍耐、地道な積み重ねが結果につながる競技が主流だったように思う。

一方、今のスノーボードやフリースタイルは、自己表現の要素が強い。技術だけでなくスタイルも評価される。音楽やファッション、カルチャーと密接に結びついている。スポーツがより個性の発露の場へと変化していることを感じさせる。

これは時代の価値観の変化でもある。かつては「みんなで同じものを見る」時代だった。家族がテレビの前に集まり、同じ瞬間に歓声を上げる。翌日の学校や職場では、昨夜の名場面が共通の話題になった。

今は「それぞれが違うものを見る」時代だ。SNSでは、自分の“推し”選手を追いかける人もいれば、全く別の話題に夢中な人もいる。共通の話題が減ったというより、共通でなくても成立する社会になった。

それは寂しさでもあり、自由でもある。

オリンピックの存在感が薄れたと感じるのは、イベント自体の問題だけではない。社会の成熟、価値観の多様化、情報の個別化。さまざまな要素が重なっている。かつてのような「国を挙げて盛り上がる」空気が作られにくくなった背景には、私たち自身の変化がある。

しかし、それでもなお、アスリートたちの姿は胸を打つ。何年もかけて準備し、たった一度の本番にすべてをかける。その緊張感と覚悟は、時代が変わっても変わらない。結果がどうであれ、そこに至るまでの努力は本物だ。

もしかすると、オリンピックの意味は「国威発揚」や「景気刺激」から、「個の物語」へと移行しているのかもしれない。一人ひとりのストーリーを、それぞれが見つけ、応援する。全員が同じ方向を向く必要はない。共感できる物語に出会えた人だけが、静かに熱くなる。

ミラノ・コルティナのマスコットぬいぐるみコレクション──ティナとミロ

それは派手ではないが、悪い変化ではない。

昔は、オリンピックが来ると未来が明るく見えた。今は未来に対する不安も多い。それでも、氷上や雪上、トラックやコートで挑戦を続ける姿を見ると、人間の可能性はまだ広がっていると感じる。

「いつの間にか始まっている」と思う今のオリンピックも、よく目を凝らせば確かにドラマは生まれている。情報の洪水の中で見逃してしまいがちなだけで、本質は変わっていない。

オリンピックは、その時代の鏡だ。
高度成長期の勢いも、バブル期の消費も、成熟社会の静かな熱も、すべて映し出してきた。

だからこそ、存在感が変わったこと自体が、今という時代を物語っている。

テレビを買い替えなくても、車を新調しなくてもいい。
ただ、どこかの会場で挑戦している誰かに、ほんの少し思いを向ける。それだけで、オリンピックはちゃんと始まるのかもしれない。

そして数年後、また同じように「もう始まっている」と気づいたとき、私たちはどんな社会に立っているのだろうか。

オリンピックは、競技の祭典であると同時に、時代の空気を映す装置でもある。
その変化を感じること自体が、今を生きている証なのかもしれない。